ある中国人に有声閉鎖音のprevoicingを習得させるのを断念した理由

 以前、中国人に郵政閉鎖音のprevoisingを習得させるにはどうしたらいいかDAY 1同DAY2の記事で、中国人であるレモンスクールの代表に、日本語の濁音のprevoicingを教えている話をしていましたが、その後全く更新しなくなった理由は、習得させるのを断念してしまったからです。こういう格好悪い部分は見せないようにしようと思いましたが、やはりこういう失敗談も正直に書こうと思いました。

「なぜこれをやる意味があるのか?私は中国語のp, t, kとb, d, gをそのまま日本語のパ行、タ行、カ行 vs. バ行、ダ行、ガ行に使ってるけど、発音も聞き取りも、それで困ったことはない。」と、本人にprevoicingを習得するモチベーションがないのです!

 というかもっと根本的な部分に、妻は夫の言うことを聞かない、夫は妻の言うことを聞かない。でも同じことを他の人が言えば聞く。というのがあります。家族から習う、というのが良くないのでしょう。よく「何を言うか」よりも「誰が言うか」の方が大事だと言いますからね。

 これが断念した決定的な理由です。「レモンスクールは発音に特化したスクールを目指しているし、音声学者、音韻論者なら、voice onset time (VOT)をある程度自在に操って、有声音、有気音、無声無気音を発音し分けられるようにしたい」というのが私の主張ですが、本人がやりたくないというのなら、その気にさせる策がない限り、そこで試合終了です。試合終了にしないためには、言語学者ではなく、夫婦カウンセラーの出番かもしれません。(笑)

 

 言語学的な話をすると、まず、日本語では若い世代の人では、ガ行、ダ行、バ行といった濁音が、有声音ではなく、voice onset timeがプラス(つまりprevoicingがなく、短めの気音がある)になっている、というのは、よく言われています。私は若い世代ではありませんが、確かに自分でもそういう発音をすることがある自覚はあるので、それが若い世代で進行しているというのは、感覚的にうなずける部分はあります。しかし、日本語の濁音が無声音で発音される傾向があるからと言って、有声音に現れるprevoicingができるメリットが無いわけでは決してないと、私は思います。

 確かに、李瑋昱さん (2024年2月29日)の「超音波で見た!日本語の有性・無声対立」が集めたデータによると、日本語では、パ行、タ行、カ行 vs. バ行、ダ行、ガ行に関しては、voice onset timeにほとんど差がなく、閉鎖時間が清音の方が濁音より圧倒的に長いという特徴がありました。つまり日本語の清濁の区別は、あまりvoice onset timeに依存していないようです。一方中国語は、p, t, kとb, d, gの閉鎖時間はあまり変わらず、voice onset timeが明らかに違うので、両者の区別はかなりvoice onset timeに依存していることがわかります。「中国語の閉鎖音は、有気音、無気音の区別」と一般的にいうのも、間違っていなかったということですね。

 金珠. (2019). 日本語の語頭・語中破裂音の VOT に関する考察. 日本語・日本文化46, 47-69.を見ても、関東以西の日本人の濁音に、prevoicingが全く無いわけではないようであり、また自分自身が4、5年前に、別な実験のために若年層の声を録音した時にも、「あ、prevoicingだ!」と思ったことがあるので、うちの代表の「prevoicingの練習をする必要がない!」という意見には、こと発音に特化したスクールを目指している立場で見たら、自分がしゃべる言語の発音はできるだけよくしたいので、反対です!(笑)

 言語学では、言語の理論からアプローチするので、発音もテクニック的なことを教えることしかできません。でも、そもそもモチベーションがない人は教えても、どうにもならないわけですね。英語で、You can lead a horse to water but you can’t make it drink.(馬を水のところまで連れて行くことはできるが、飲ませることはできない。)なんて言いますが、まさにそれです。私が所属している外国語教育学会では、モチベーションの話もしばしば出てきますが、モチベーションがない人を、どうやってその気にさせるか、という話は、私が覚えてる限りでは、聞いたことがない気がします。

 

 ここで大事なのは、脳科学者の中野信子氏によると、努力が得意かどうかは、生まれつき決まっているということです。私は、「レモンスクールは発音に特化したスクールなんだから、発音練習して!」と怒りました。しかし、うちの代表は「私は発音の才能も無いし、努力もできない。そういうふうに生まれてきたんだから、しょうがないじゃん!」と言い返してきました。確かに、本当にそう生まれてきたのなら仕方のないことです。

 もう一つ興味深い発言は、「上海語が母語の人は、日本語の発音がうまい人が多い。上海語話者は日本語の発音に関して有利なんだ。でも私の母語は南通語で、そういうアドバンテージも無い。」です。確かに、上海語が母語の人で、日本語が上級レベルの人は、日本語の発音がうまい人が多いように思えますし(上海語には有声音があるので、prevoicingも練習する必要ありませんし)、母語によるアドバンテージもあるのは確かです。でも、母語にない音を大人になってからでも普通に発音できるようになる所に、発音の面白さややりがいがある、と私は考えます。また、「努力ができない」発言に関して、代表の言うことをちゃんと受け入れるべきです。以下の動画をご覧ください。

 

 つまり、遺伝的に努力ができない人には、voice onset timeの習得は、自分で発音練習をひたすらして習得する、以外の方法を考えなければいけない、というのが結論です。それを今後考えていきます。いやでも、この動画は、本当にうなずけます。例えるなら、イケメンかどうかは生まれつきです。イケメンは、ただ歩いているだけで、女の子たちがキャーキャー言ってきます。一方僕を含む大半の男性は、女の子からキャーキャー言われることなんてありません。だからと言って、「何やってんだ!女の子からキャーキャー言われろ!」と怒られても、そういうふうに生まれてこなかったんだから、それは無理です。キャーキャー言われない男達も辛いんです。そういうことですね。

 発音は、言語学だけでは解決しないということです。しかし「努力できる才能がない人は、prevoicingを習得できない。」「配偶者から、prevoicingを習いたくない」という結論では、あまりに悲しいです。このままでは、発音に特化したスクールとして不甲斐なし!そこで、策を色々と考え中です。保証はできませんが、気長にお待ちください。現在考えているのは、

①あまりプッシュすると、逆に嫌になってしまうので、今は放っておいて、気が変わるのを待つ。ただし、ただ待ってるだけで何もしないと、気が変わる可能性は低いと思われるので、何かはする。子育ても同様でしょう。

②発音が例外的といえるほどうまい人とお茶でもさせて、インスピレーションを受けさせる。ただし、努力ができる人は、成功者に刺激されて「俺もやるぞ!」という気になる傾向があるけど、努力できない人は、成功者から刺激を受けない傾向があるように思えるので、逆効果にならないように注意が必要でしょう。

③発音練習が楽しいと思わせて、自発的にやるようにする。これも子育てと同様でしょう。ただし、好奇心の多い子供は、大人が楽しそうに何かやってると、真似することも多いようですが、大人はどうでしょうか。

 

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