日本語には、五十音表という整理整頓された表があるので、非常に全体像を把握しやすいです。この表のおかげで日本語の発音は簡単そうに見えます。この五十音表の46音節、そして濁点半濁点を付けた濁音半濁音(例「が」「ぱ」)、小さい「ゃ、ゅ、ょ」を付けた拗音(例「きゃ」)、小さい母音字を付けた外来語音(例「てぃ」「ふぁ」)を含め、日本語ではこれらの音しか使いません。日本語の単語を発音する時も聞く時、必ずこのどれかの音にあてはめます。相槌の「ふん」とか、舌打ちの「ちっ」など、五十音表に無い発音も多少は使われますが、基本は五十音表の音だけで単語を作ります。日本語学習者は、母語だろうと非母語だろうと、この五十音表を初期段階で習います。

 中国語にも、ピンイン一覧表が有り、全ての単語はそれらの音だけでできています。日本語と同様、相槌などの類で多少ピンイン一覧表に無い発音も使われますが、基本は一覧表の音だけで単語を作ります。中国語学習者は、母語だろうと非母語だろうと、このピン音一覧表を初期段階で習います。これを最初に習うおかげて、私のような外国人中国語学習者も、発音が間違っていて通じない時に、どこが悪かったのか自分で把握できるので、修正が楽ですし、聞き取れない時もどこが問題で聞き取れないのかが把握できるので、練習のポイントがすぐにわかるわけです

 スペイン語も同様で、最初にスペイン語のアルファベット一覧表を教えてくれます。おかげで、通じない時や聞き取れない時に、練習すべきポイントがわかりやすいのです。韓国語でも、ハングル一覧表を教えてくれます。

 さらに中国語教育が優れている点は、中国語には声調(音程を変えて単語の意味を変える)があり、これも母語、非母語に関わらず、初期段階で教えてもらえます。一方、実は日本語にも「雨」と「飴」、「牡蠣」と「柿」、「切る」と「着る」、「九州」と「吸収」のように音程で単語の意味を変える声調(いわゆるピッチアクセント)がありますが、日本語ではこれを体系的に教える指導マニュアルがあるわけではありません。小学校1年生の時、日本人は五十音表を習い、拍の数え方も習いますが、声調は習いません。それでも日本語母語話者は、自分の母方言の声調を感覚で正しく使いこなして、コミュニケーションを効率的にとれますが、非母語話者の多くは体系的に習っていないので、「雨」と「飴」などの区別に非常に苦労し、どう練習していいのかもわかりません。私は、外国人日本語学習者への指導以前に、中国語教育を見習って、まずは小学校低学年の国語の時間で、日本語母語話者に日本語の声調(できれば各地域の体系ごとに)を教えるところから始めるべきではないかと思います。

 さて問題の英語ですが、英語にも当然音の目録があり、全ての単語はその音だけでできています。日本語や中国語同様、相槌などの類で多少はその目録に無い発音も使いますが、基本的には全ての単語はその目録の音だけでできています。北米英語なら、13母音、24子音(cotとcaughtを区別する方言なら14母音、witchとwhichを区別する方言なら25子音)、イギリス英語なら、18母音(pourの母音とcureの母音を区別する方言なら19母音)。ちなみに、イギリスの方が単純に数が多いから、イギリス英語の方が発音が難しいとか複雑だとか、そういうことではありません。同様に、日本語は母音が5個しかないから簡単だとか単純だとかいうことでもありません。ここが数字のトリックの面白い所でもあります。ドラゴンボールでスカウターの戦闘力の数値だけで単純に強さを判断してはいけないのと同じです。

 大問題なのは、英語には上記の言語のような、整理整頓された一目瞭然の音の一覧表が無いということです。当然アメリカやイギリスの音声学者達(言語学者の中でも、発音をメインで研究する人達)は、英語の音の一覧表を論文や専門書にまとめています。ただこれはあくまで研究者仕様で、発音の研究者以外の人には非常にハードルが高く、一般には広まりません。私は、日本音声学会、日本音韻論学会といった、発音の学会に所属していますが、日本の音声学の研究者の中でも、英語の音の一覧表に音がいくつあるかを把握している人は正直少なく(音の一覧表の存在を知らないか、存在は知っていても理解できていないか、ある程度理解はしていても自分で使いこなせないなど)、私自身も理解して使いこなせるようになるまでには何年もかかりました。とても初心者が気軽に使えるようなものではないと思います。

 日本語の五十音表や、中国語のピン音表、スペイン語のアルファベット一覧表のように、初心者にもわかりやすい整理整頓された表があれば、発音がすごく簡単そうに見えるのですが、英語には初心者用の一覧表が無いので、発音がものすごく難しそうに見えてしまいます。これは英語教育の大弱点です。英語の母音が難しいという人は、そもそも英語に母音がいくつあるのか知らないだけの話です。これは日本語教育で、日本語のピッチアクセントの知識がない外国人が、日本語の「雨」と「飴」、「牡蠣」と「柿」、「切る」と「着る」、「九州」と「吸収」などの区別が異様に難しく感じてしまうのと同じことです。

 日本語母語話者が、「雨」と「飴」の違いなどを習わなくても感覚で身につけて、正しく発音しているのと同様に、英語母語話者は、「音の一覧表」という形では習わなくても、感覚で正しく発音しています。しかし英語母語話者は決して何も習っていないわけではなく、フォニックス(音とつづりの対応)をみっちり習っているのに加え、rhyme(韻を踏む)というゲームがあり(例えばrhymeのymeの部分は、timeのimeの部分と同じ発音)、これが英語では非常に大きな役割を果たしているので、英語母語話者は日々どの音とどの音が同じか、違うか、という感覚を養っています。ただでさえ日本人英語学習者よりも英語の音に対する感覚がはるかに優れているうえに、しっかりと習って日々鍛えているわけです。

 だからと言って、それを非母語話者に教えられるかというと、残念ながらそういうわけではないのです。なぜなら母語話者にとってあたりまえのことが、非母語話者にはあたりまえではないからです。この前提が違うと、決して歯車が合いません

 例えば、日本語母語話者にとっては「にほんご」という単語は、「に、ほ、ん、ご」の4つの基本単位に分けられます。これはもう当たり前のことで、逆にこれ以外の分け方はできません。しかし日本語が母語ではない人には、まずこれを4つに分けることができなかったりします。そして4つだということがわかっていたとしても、「に、ほ、おん、んご」などのような、日本語母語話者としては絶対に有りえない所で区切ったりするのです。つまり、「に、ほ、ん、ご」という分け方は、非母語話者には決してあたりまえではないのです。まさかと思うかもしれないが、本当に彼らはできないのです。

 これは私を含む日本人英語学習者にとっても同じで、英語母語話者にとってあたりまえのことが、私たちにはあたりまえではありません。彼らにとってまさかと思うことが、私たちにはできないということが、しばしばあります。YouTubeで英語母語話者の人たちの発音指導の動画は山ほどありますが、これらの多くは既に基礎ができている人がもっと上のレベルを目指すには非常に効果的ですが、基礎というか、母語話者にはあたりまえのことがあたりまえにできない人たちには、ピンとこないというか、期待通りの効果は出せないようなものも少なくありません。こういうことを踏まえた、指導マニュアル的なものが必要になります

 英語にも、初心者にもとっつき易いユーザーフレンドリーな音の一覧表が必要です。私はこれに関して、野北明嗣. (2022). Suggestion for Standardization of the English Phoneme Inventory Table for L2 English Learners and its Classroom Usage. 音韻研究25, 39-50. の論文で書き、2021年8月の音韻論フォーラムという学会でも発表し、幸い非常に興味を持ってくれた方もいらっしゃいましたが、研究者の方達は皆自分の研究で忙しいので(私も自分の研究のことだけで手いっぱいですし)、なかなか「是非発音指導改革しましょう!」と言ってきてはくれないですね。(笑) もしかしたら、まだ進路があまり決まってないような大学院生などの若手の心に響くようにしていく必要があるかもしれません。

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