日本語のローマ字表記と英語教育 ― ヘボン式偏重を憂う(柴田武史先生より)
柴田武史先生がFacebookに投稿されていたものを、シェアしたいと思います。
私も全く同じことを考えていますが、柴田先生が私よりも断然説得力のある言葉で書いていただいているので。
日本語のローマ字表記と英語教育 ― ヘボン式偏重を憂う
日本では、ローマ字といえば「ヘボン式」が当然のように受け入れられています。英語教育の現場では、児童・生徒に対して「ローマ字はヘボン式で」と教える指導者が少なくありません。小学校の英語の学習指導要領には「児童の名前や日本の地名などを英語の授業や活動でアルファベット表記する場合は、一般に用いられているヘボン式ローマ字を使うのが望ましい」という一節があり、中学校英語教科書にもヘボン式ローマ字の書き方が載っていて、生徒はヘボン式で名前や地名を書く練習をさせられます。このような状況で、「ヘボン式が正しい」とする見方が広まっていますが、これは本来、冷静に見直されるべき問題です。
ヘボン式の起源とその問題点
ヘボン式とは、幕末から明治初期にかけて来日したアメリカ人宣教師J.C.ヘボンが、英語話者が日本語を読むために考案した表記法です。英語話者のためのものですから、ヘボン式は日本語話者にとっても非英語圏の人々にとっても訓令式に勝る方式ではありません。
ヘボン式のつづりには問題点が多くあります。例えば、「ち」は「chi」と表記されます。これは英語では「チ」と読む場合もありますが、フランス語では「シ」、ドイツ語では「ヒ」、イタリア語では「キ」と読みます。言語によって読み方が異なるのです。さらに、英語話者にとっては、hiが「ハーイ」ですから、chiは「チャーイ」の方が直感的に浮かぶ読み方です。
「ふ」は「fu」と表記されますが、日本語話者は英語のYahooのhooやwhoを「ふー」と読み、foodのfooも「ふー」と読むため、日本語話者にはヘボン式で「ふ」や「ふー」をhuでなくfuとする理由がわかりません。Hukuokaを外国語話者がHuを/h/の音で発音しても、Fukuokaを/f/の音で発音してもほとんどの日本語話者はその差に気づくことさえないのですから、「ふ」をfuと書くのは無意味なことです。
もっとあります。本来、ヘボン式でも訓令式と同様に「こ」と「こー」の違い、すなわち母音の長短を書き分けます。「こ」はkoで、「こー」「こう」はkōです。ところが、いつの間にか旅券の発行のときにも、学校の指導においても、英語の教科書でも、そして地名表記の看板などでも「ヘボン式では長音表記はしない!」ということになってしまっているのです。
アルファベットの文字の上に横棒を引いてTōkyōなどつづるのは「英語らしくなくて格好悪い」のかもしれません。単に面倒なのかもしれません。あるいは、長音表記なしでも英語話者たちがTokyoやKyotoを直感的に「トウキオウ」「キオウトウ」のように、すべての”o”を「オウ」と発音してしまうので、「お」と「おー」をローマ字で書き分ける必要がないという考えもあったかもしれません
いずれにせよ、結果として、「戸郷(とごう)」「東後(とうご)」「東郷(とうごう)」がすべてTogoと表記されて区別できないという私たちにとっては極めて深刻な問題が生じています。
訓令式の優位性
これに対し、訓令式ローマ字は日本語の音韻体系と整合的な形で設計されており、音と文字の対応が明確です。例えば、「たちつてと」はta ti tu te to、「はひふへほ」はha hi hu he hoと表記され、五十音と対応し、日本語学習や日本語教育における理論的基盤としても優れています。また、「戸郷」「東後」「東郷」はTogô Tôgo Tôgôと長音を表記するので、明確です。
国際的な表記改革の事例
世界を見渡せば、言語と表記の改革は国家的課題として行われてきました。中国語は20世紀の半ばにピンインというラテン文字表記を整備して普及を図り、現在では国際社会でも標準的に用いられるようになりました。インドネシア語は1970年代に旧オランダ式表記を見直し、政府主導で音韻により忠実な新ローマ字表記に統一しました。ウズベク語も、ソ連期のキリル文字からラテン文字への移行を国家プロジェクトとして30年前から進めています。これらの国々は、単に「これまでのものに慣れているから」などとは言わず、言語の構造・国民の識字率・国際的な合理性をもとに表記体系を選び直しています。
日本におけるローマ字表記の現状と課題
日本では、昭和29年(1954年)の内閣告示によって日本語のローマ字表記法とされ、「今後、各官庁において、ローマ字で国語を書き表わす場合には、このつづり方によるとともに、広く各方面に、この使用を勧めて、その制定の趣旨が徹底するように努めること」が求められました。しかし、占領期の英語中心主義的な風潮に引きずられたこともあってか、ヘボン式がなし崩し的に使われ続けてきたという事情があります。
この内閣告示が「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に」限ってヘボン式も許容するとしたこともヘボン式の跋扈を助長しました。パスポートにヘボン式で氏名を書かせるだけではなく、多くの官庁や地方自治体が、国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情などなくても、ヘボン式を使用し続けました。これは行政上の責任放棄といっても過言ではありません。それに倣って民間でも、深く考えることなく、ヘボン式を使う方が「国際的」で正しいという感覚でヘボン式を多用してきたのです。
訓令式よりもヘボン式の方が優れているから、人々の間で自然発生的にヘボン式を使うことになっていったのだという主張をする人もいますが、これは事実誤認です。もしも官庁の人たちが率先して1954年の内閣告示に素直に従っていれば、その後の70年間に日本では訓令式ローマ字が普及していたに違いないのです。訓令式によるローマ字表記が一般的となっていれば、パスポートの氏名表記の際のヘボン式強制も見直されていた可能性さえあるでしょう。しかし、現実は、小学校の国語の授業では内閣告示に従って訓令式を教えて、英語の指導では母音の長短を区別しないという変則ヘボン式を推奨し、街にはヘボン式と訓令式のローマ字が混在するというカオス状態になってしまっています。
教育現場での混乱と誤解
英語教育者はしばしば「訓令式は英語学習の妨げになる」「英語表記と整合性のあるヘボン式の方が教育的に有効だ」といった主張をします。しかし、これは問題のすり替えです。日本語をローマ字で正確に表記するという問題と、英語を学習するという問題は、まったく別の事柄であり、明確に切り分けて考えるべきです。
自国語の表記にラテン文字を用いるフランス人が、英語を書く際にフランス語の地名や名前の綴りを「英語風」に書きかえることなどありえません。例えば、パリの地名シャンゼリゼを英米人用にShahnzay Leezayなどと書こうかなどと思うわけがありません。シャンゼリゼのフランス語でのつづりはLes Champs-Élyséesです。英文中でもそうつづられます。フランス語を知らない限り、このつづりを読むことはできません。当然です。それぞれの国が独自の言語体系や表記原則に基づいてつづり方を決めているからであり、そこには外国人が読みやすいようになどという配慮が入る余地はありません。英米人がChampsを見て「チャンプス」と読むかもしれないなどという心配などしません。Pierre(ピエール)という名前のフランス人男性は英文中でもPierreのままです。英語話者のためにPièrreの英語形であるPeterと書いた方がいいなどとは絶対に思いません。
ところが、日本では「小学校で『高知』をKôtiと書くことを習ったが、これでは外国の人が読みにくいから『国際的な』ヘボン式でKochiと書くべきだ」などと考える人がいます。これは極めて不自然な現象であり、英語中心主義に偏った思考の結果でしょう。
私の名前、柴田武史をSibata Takehumiと書こうが、Shibata Takefumiと書こうが、日本語を知らない人はそのどちらも正しく読むことができません。ヘボン式が英語話者のために考案されたものであっても、日本語の知識が皆無の英語話者にはShiが「シャイ」ではなくて「シ」であることも、baが「ベイ」ではなくて「バ」であることも、fuが「フュ」ではなくて「フ」であることもわからないのです。それなのに、Shibata Takefumiの方がSibata Takehumiよりも「外国人にとって読みやすい」とか「好ましい」とか「国際的」だからなどという理由をつけて、英語を使う際にはSiをShiに、huをfuとするべきだとか言うのは間違った思い込みにすぎません。
日本語のローマ字表記が「国際的」であるべきだと主張し、さらに「国際的」かどうかを判断する基準が「英語話者にとっての親しみやすさ」に偏っていることが間違っているのです。「ヘボン式の方が国際的」「ヘボン式の方が使われている」といった声に流され、混乱した現状をそのまま「常識」として受け入れてしまうことは、将来的に日本語の情報発信力を損なうことにもつながりかねません。
英語教育で行うべきことは英語を教えることです。日本語のローマ字表記を英語式に変形させることは英語教育に何の関係もありません。日本語本来の音声と構造を尊重した表記体系に立ち戻ることこそ、真に日本語と英語の両立を可能にする道です。
日本語のローマ字表記は、単なる表記の問題ではなく、言語教育や文化のあり方にも深く関わる重要な課題です。今こそ、ヘボン式偏重の現状を見直し、日本語の特性を尊重した表記法の確立に向けて議論を深めるべきです。
※野北の個人的見解
私も、訓令式を推しますが、訓令式は訓令式で、外来語音の「ディ」「トゥ」「デュ」などの外来語音をどう表記するかという課題もありますね。これに関してはまた後日書いていこうと思います。
ちなみに「行政上の責任放棄」というのは、ややきつい気がするので、言語学を専門でやっている人たちが、政府に協力するという、フレンドリーな関係になれればと思っています。