ここでは、特にこれから音声学や音韻論をやりたい人に、頭に入れておいてほしいことを書いていこうと思います。まず結論から言うと、音声学者(おんせいがくしゃ)でも音韻論者(おんいんろんじゃ)でも、できるだけ発音練習をして、自分自信の発音の実技が上手くなる努力をすべきだと僕は思います。これは僕自身への戒めでもあります。そしてできたら何らかの楽器が弾けることが望ましいです。さらに欲を言えば、国際結婚をしていたりハーフだったり、家族や同居人に日本語以外の言語を母語とするメンバーがいればなお良いです。音声学・音韻論の教科書や論文をたくさん読むのは当然必要ですが、やはりそれだけでは足りず、上記の要素が必要となってくると思っています。

 いつぞやの音韻論の学会の後、みんなで飲みに行った時に、「音声学者には発音のセンスが必要だけど、音韻論者は発音のセンスがなくてもできるのではないか」という話にもなりましたが、僕はむしろ逆ではないかと思います。センスと言っても、生まれ持った才能が必要というわけでは必ずしもなく、発音練習をたくさんして実技を磨くことがより必要なのは、どちらかと言えば音韻論者の方ではないかと思います。

 そこでまず音声学と音韻論の違いを見ていきましょう。

 John Ohala先生という人の話によれば、音声学と音韻論の間に明確な境目はなく、簡単に言えば1つのものと考えて良いと言うことでしょう。つまり、音声学者も音韻論者も、発音の研究者ということです。

 その中でも音声学では、物理的な音そのものや、音を作るための物理的な動きを主に見ていきます音の波形だとか周波数だとかを調べたり(こういう音そのものを見るものを音響音声学 acoustic phoneticsと言います)、超音波など色々な機器を使って舌の動きや唇の動きや、筋肉の動きなどを調べたり(こういう人間の体の動きを見るものを調音音声学 articulatory phoneticsと言います)というのが、主な仕事になります。

 一方音韻論では、話者が物理的な音をどう解釈するのか、ということを調べるのが主な仕事です。例えばある音を聞いた時、A語母語話者は「2つの音」だと考え、B語母語話者は「1つの音」だと考えるかもしれません。同じ母語話者でも人によって違うかもしれません。つまり物理的な音を、どう人間が解釈するかという心の音に関する研究です。何しろ人間がジャッジするものだから、錯覚や先入観も多く、心理学に近いものです。だからこそ音韻論の研究では、研究者が実際にその音を発音できるかできないか、その音をコミュニケーションツールとしてどこまで実践で使えるか、という部分で大きな違いが出てきます

 例えば球技で、腕の角度がどうとか、ボールの回転数はいくつか、ボールがはずむ角度はどうか、と言った人間の目ではなかなか確認できないような物理的なことを、色々な機器を使って観察、研究することは、発音で例えるなら音声学です。一方、ボールの進行方向と逆回転する物理的な動きを、野球をやる人なら「ストレート」と呼び、テニスをやる人なら「スライス」と呼んだりします。そしてこの逆回転を使う目的も、野球とテニスで異なります。こういう物理的な動きに人間がどういう名前を付けるか、どういう目的で使うか、これが発音で例えるなら音韻論にあたる部分です

 ここで大事だと個人的に思うことは、ボールの回転がどうとか、腕の角度がどうとか、そういうことがわかって「ふーんこうなってるんだ。面白いね。」で完結してしまうのではなく、それを実際にどう役立てるのか、さらにはどう社会貢献するのか、がポイントじゃないでしょうか。

 テニスのサーブで例えるなら、音声学では、ボールの回転数や角度に注目します。一方音韻論では、「このサーブはスライスサーブ」「このサーブはテニスの王子様の主人公越前リョーマの得意技、ツイストサーブ!」といったように、回転の種類によって名前をつけていきます。ここで問題なのは、テニスの論文や教科書をたくさん読んでいてサーブの知識は豊富でも、

1)実際にサーブを受けた時に何サーブだか判別できない人

2)何サーブだか判別はできるが自分では打てない人

3)自分でもある程度のレベルで打ち分けられる人

4)プロレベルで打ち分けられる人

では全く感じているものが違うということです。

 1)の実際にサーブを受けても何サーブだか判別できない人が、サーブに関する論文を書いても、想像による部分が大きいので、それはただのファンタジーになってしまう可能性が大きいです。やはり1)の人よりも2)、2)の人よりも3)、3)の人よりも4)の人が書いたサーブの論文の方が、圧倒的に現実的で中身の濃い内容になるはずです。特に4)のレベルの人たちの世界は僕には全く知り得ない世界ですが、きっとサーブを打つ側や受ける側の気持ち等のそういう細かい所まで、有り得ないレベルで熟知しているんじゃないかと想像します。

 発音も同様で、ある音に関して、論文や教科書をたくさん読んでいて知識は豊富でも、

1)実際にそれらの音を聞いた時に音の判別ができない人

2)音の判別はなんとかできるが自分では発音し分けられない人

3)自分でもある程度のレベルで発音仕分けられる人

4)ネイティブレベルで発音し分けられる人

では全く感じているものが違うということです。

 1)の実際の音を発音し分けることも聞き分けることもできない人が、その音に関する論文を書いたら、想像による部分が大きいので、それはただのファンタジーになってしまう可能性が大きいということです。「話者はどういう気持ちで、この音をここではあえてこう発音するのか?」という所までは、やはり自分が発音できるようになってみて初めて理解できる部分が多々あります。そこまで理解して書いた論文は、やはり重みが違うでしょう。ということで、やはり音韻論者はより自分自身の発音の実技を磨くことが大切になってくると思います。

楽器をやっているメリット

 上手いか下手かは別として、何らかの楽器が好きでそれをある程度の年数やっていると、音声学でも音韻論でも有利でしょう。まず音楽をやると、「音を聞いて真似する」という作業に慣れています(上手く真似できているかは別として)。発音も同じだからです。慣れていれば、発音でもこの作業が苦にならないどころかむしろ楽しく感じるでしょう。

 次に、音響音声学の分析をする時に、周波数がよく出てきますが、音楽の理論をかじっていると、この周波数の概念を既に知っているので、非常にとっつきやすいです。また、イントネーションやトーンの分析をする時に、セミトーン(半音)という単位をよく使います。カラオケでキーを1つ上げると、1セミトーン上がります。音楽をやっているとセミトーンがどのくらいなのかをいつも感じているので、例えば「5セミトーンの差」とか言われても、「ああこのくらい違うのか」というイメージをつかめます。(5セミトーン上げると、ドからファまで上がります。)

 リズムも同様で、音楽には弱拍強拍があります。言語にも弱拍と強拍があり、英語のように言語によってはそれがかなり顕著です。これが音楽の弱拍強拍の概念がわかっていると、非常に理解しやすいです。弱拍から始まる曲がありますが、英語の弱拍から始まる単語やフレーズも同じです。実は日本語にも弱拍と強拍があることはあるのですが(ただ存在感は非常に薄い)、これも音楽の弱拍強拍の概念がわかっていると、非常にわかりやすいです。強拍を必ずしも強くするとか高くするとか、そういうことではないということが、音楽の経験から理解できます。

 というように、音楽の経験は、音声学・音韻論で使える部分は多々あります。

同居人に日本語以外の言語を母語とする人がいるメリット

 スポーツでも一つのスポーツしかやっていなかった人は、しばらくすると頭打ちになってしまうと聞きます。他のスポーツをやっている人の方が応用が効くと言います。発音もやはり同じで、別な言語の発音を日頃から聞き慣れていることが、とても大きいと思います。日本語の発音の研究にしても、日本語話者の視点だけで見るより、他の視点から見てもらうことはかなり大きいです。日本人にはあたりまえのようにこう聞こえるという音が、別の言語の母語話者には全く違って聞こえているということも、しばしばあります。 

 国際結婚をしているかどうかも、その人が言語学に対してどれだけの覚悟があるかという現れの一つでもある気がします。もちろん数ある覚悟の内の1つですが。ある語学が堪能な台湾人の友達から、「自分は日本語が上手くなりたいから、絶対に日本人と結婚すると決めていた。そういう覚悟が無いのに、『外国語を練習するチャンスがない』と愚痴ってるのは甘い。」とハッキリ言われました。なんとなく語学のために外国人を利用するのは良くないことだとも思っていましたが、音声学・音韻論で食べていこうとするなら、そんなことを言っている場合ではないと知りました。実は僕は日本人女性と結婚していましたが、語学には全く興味がない人だったこともあり、色々話し合った結果、お互いのためにも離婚することを決めました。そして、今の中国人と再婚し、中国語とヌンタン語(南通語)にいつでもアクセスできる環境を手に入れました。僕もまだまだ音声学・音韻論の分野では下っぱでえらそうなことを言える立場ではありませんが、音声学・音韻論に適した環境を自ら手に入れる覚悟は必要だと思います。人に言うからには、自分も覚悟を持って頑張りたいと思います。

子供が憧れる職業に?

 例えばワールドカップやWBCを見て、子供たちが「サッカー/野球選手になりたい」とか、コロナと戦う姿を見て「医者になりたい」とか、電車に乗って「運転手になりたい」と思うように、憧れられる職業というのがあります。しかし音声学者や音韻論者はマイナー過ぎて、「大人になったら音声学者/音韻論者になりたい!」という子供たちは、残念ながらほぼほぼいないでしょう。しかしこれからは、僕たちが色々と発音の面白いパフォーマンスを見せて、子供たちから「おおお!!音声学者/音韻論者かっこいい!!」と思われるような、そんな憧れられる職業に、現役、そして未来の音声学者/音韻論者達がしていけたらいいなと思います。

 まとめると、やはり実技を磨くことが、音声学・音韻論では必要不可欠だと思います。

 余談ですが、知り合いのテニスコーチに、「(打つ時に)ボールに気持ちを伝えて!」と熱く指導する人がいます。これを発音にも応用して、「(発音する時に)発音に気持ちを伝えて!」というのが大事ではないかと思います。

参考文献:

Ohala, J. J. (1990). There is no interface between phonology and phonetics: a personal view. Journal of phonetics18(2), 153-171.