日本語はモーラ言語ではない!伝統的な金田一春彦の「拍=音節」説を再定位

 

日本の言語学に関して、非常に大事な話をするので、言語にちょっと興味を持っている方も、現役の言語学者の方も、是非最後まで読んでいただければ幸いです。

 

今年、日本音韻論学会の「音声研究29号(2026)」というジャーナルに、拙著

Japanese is Not a Mora Language: Reviving Kindaichi’s Traditional Haku-as-Syllable Theory

が掲載されることになりました。

※音韻研究21号(2018)でも、日本語の音節モーラについて書かせていただきましたが、この頃とは考え方が変わっているので、以前のは削除したいです、、、😅

ここでは、その論文で「筆者の最も言いたいこと」を書かせていただこうと思います。

※ 学術論文では、当然科学的根拠が必要で、また査読をされるため、査読者に気に入られなければ不採択になるため、好き勝手に書けない部分が当然あります。「この人が犯人だ」とわかっていても、証拠が揃わなければ逮捕できないようなものですね。なのでここでより本心を書かせていただきます。

 

そもそも、日本語がモーラ言語か否か?という前に、

モーラとは何か?音節とは何か?

これがわかっていなければ、どうにもなりません!

 

私ごとき中堅どころの研究者が、こんなことを言うのは非常に勇気がいりますが😱、でも誰かが言わなければいけません。イルカが哺乳類か、魚類か、の議論をする前に、哺乳類、魚類の定義をしっかりしないと、議論にならないのと同じことです。

 

カナダ人や、中国人の音声学者達と話をすると、「日本の研究者は、モーラを違う意味で使っている」とおっしゃっているのです。これは無視できないでしょう。

 

● 音節を理解するために

元も子もない話をさせていただくと、

日本語の「レモン」の「レ」と

英語のlemonのleが

同じ1単位だということは、簡単に理解できるでしょう。

 

では、日本語の「レモン」の「レ」と

英語のstreetが同じ1単位だということは、

非常に違和感を感じる人が多いのではないでしょうか?

 

これは結局のところ、

英語のlemonのleと、streetが同じ1単位ということに違和感がある

のと同じことです。

正直、ここに違和感を感じているうちは

音節について語ることはできません!

 

英語のネイティブスピーカーは、英語のsyllableに関する感覚は非常に強く、

日本人が「レモン」を「レ、モ、ン」と3単位に感じることと同じように、

lemonのleと、streetを同じ1単位と感じます。

日本語で「レ」「モ」「ン」がそれぞれ俳句で1単位カウントされるように、

英語ではlemonのleも、streetも、歌詞で音符1つにあてはめられます。

 

streetを、s, t, re, e, tのように5単位に感じてしまうのに、

これを「1音節」と呼んでいるうちは、理論と感覚にズレがあるので、

絶対に正確な分析はできません。

そして、streetを1単位で発音でき、1単位として聞け、感じられる人と、

streetを2単位以上に感じてしまう人では、

議論は永遠に平行線です。

 

例えばテニスのフラットサーブ、スライイスサーブ、キックサーブといった球種を、ある程度のレベルで打ち分けられる人と、教科書や論文でこれらの用語を知っているが、これらのサーブを見ても何サーブだかわからない人では、議論は永遠に平行線なのと同じです。

音節が実際に聞こえる人と聞こえない人では、聞こえている世界が違うので、話は永遠に噛み合いません。

 

音節について語るのなら、

まず日本語以外の言語(英語じゃなくても良い)、できたら2言語の、

音節をある程度のレベルで発音でき、聞け、感じられるようにして下さい!

日本語が母語じゃない方は、

「レ、モ、ン」「ハ、ッ、ピ、ー」と、

拍をある程度のレベル発音でき、聞け、感じられるようにして下さい!

 

実は、論文の査読者の一人から、「音節やモーラを含む音韻論の分析に、発音ができるかできるかは関係ない。理論がわかればいい。」と言われましたが、ここには大いに反対します。

この匿名の査読者の方は、それ以外に関しては非常に協力的で、非常に知識も豊富で、私もとても勉強になり、有意義な議論ができました。この点においてのみ反対というだけです。

音韻論者は発音練習を怠ってはいけないと思います。

↑私自身への戒めでもあります。

 

● 音節は人間の本能に備わっているもの?

幼児達が、例えば「(電車が)15両」とかを、「じゅ、う、ご、りょー」とか、

教えてもいないのに、単語を区切る所をよく目にします。

彼らは母語の発音体系をまだ獲得してないので、

大人の分け方とは必ずしも一致しませんが、これを見て、

 

音素以上、単語以下の、比較的発音しやすい単位に区切ることは、

人間の本能的な行動ではないかと思いました。

だとすると、この人間の言語の最も基本となる単位を間違って解釈した

それ以降の全ての解釈が間違ってしまうわけです。

ここは慎重にならないといけません。

 

日本語以外の言語では、音節(syllable)が、その言語の基本単位です。

例えば英語のstreetは、これ以上分けて発音できない、基本単位です。

 

「日本語モーラ言語」説では、

日本語の「さん」と英語のsunや中国語のsānが、

同じ単位ということを前提にしていますが、

標準語では、そもそもこの前提が間違っていると言わざるをえないでしょう。

※ 鹿児島方言とか、方言によっては、「さん」=sun=sānかもしれません。)

 

日本語の標準語では、「さん」は明確に「さ」「ん」と分けられます。

英語や中国語は、決してsu-n、sā-nと分けることはできません。

このような分け方は非常に不自然です。

「さん」は歌や俳句で2単位ですが、sunやsānは歌や詩では1単位です。

英語のフォニックスの指導で綴り字を強調するために分けて発音することはありますが、必ずしもそれをつなげれば元に音節になるわけではありません。音素だけを切り離す時は、母音を挿入したりなど、音節を発音する時とは違う、”不自然”な発音になります。

 

一方例えば上海語のdan(タチウオという骨が多くて食べにくい魚)は、

da-nと明確に2単位に分けられ、「2音節」として扱われます

日本語の「ん」は、明確に上海語のnのような振る舞い方です。

 

何も英語とだけ比べなくても、

他の言語を見れば、日本語の「ん」ような音節主音の子音は、

いくらでもあるわけです。

 

日本語の「さん」の「ん」はコーダ(音節内の母音の後の子音)ではありません。

明らかに音節主音の鼻音です。

「子音だけで発音する」のは、「音節主音の子音」です。

とは言っても、sunやsānのようなコーダの鼻音

英語のmessのssや、pestのsとtを、

子音だけで発音する、という感覚があるうちは

コーダとは本当は何なのかを、理解することはできません。

sunのn、pestのstは前の母音とセットで発音する

という感覚が身について、初めてコーダが何なのか理解できます

 

音節は、その言語の母音話者が1単位と認識する、

自然に発音可能な最小単位!

 

● モーラは耳で聞こえるものではない!

日本人(正確には日本語母語話者)の言うモーラは、

「日本人が1単位と認識するものが1モーラ」です。

例えば「おんせい」なら4単位に聞こえるので、4モーラ、という具合です。

しかし、本来モーラは、言語学者が便宜上作った抽象的なツールなので、

耳で聞いて、1つ2つと数えることはできません。

 

モーラは本来、音節の重さ(syllable weight)を示すための単位です。

※ syllable weightが本当は何なのかは、また後日説明します。

重さは、例えばキログラムと同じで、目で見て数えることはできません。

このイラストのように、例えば2キロのメロンは、

目で見て「1キロ、2キロ」とキログラムを数えることはできません。

人間にハッキリ認識できるのは、メロンが3つあるということです。

それぞれのメロンの重さや、3つ合わせた重さは、見た目だけではわかりません。

モーラはそういうイメージです。

メロンの数が音節の数、メロンの重さがモーラ、というイメージです。

 

つまり「(本来聞こえないはずの)モーラが聞こえる」と言うのなら

それはモーラではなく、何か別なものが聞こえているということになります。

「(本来聞こえないはずの)光が聞こえる」と誰かが言ったら、

実際は光ではなく、何か別なものを聞いているのでしょう。

それと同じです。

 

では日本人の感覚と、日本人以外の音声学者の言うモーラを、

以下の英単語で比べてみましょう。

 

beast /biːst/ → 日本人は4モーラ /bi – ː – s – t/   実際は2モーラ

fail /feɪl/ → 日本人は3モーラ /fe – ɪ – l/  実際も3モーラ

lemonのmon /mən/ → 日本人は2モーラ /mə – n/  実際は1モーラ

lemonのle /le/ → 日本人は1モーラ /le/  実際も1モーラ

dataのta /tə/ → 日本人は1モーラ /tə/  実際は0モーラ

 

日本人にはbeastの方がfailより長く感じるのに、なぜfailの方がモーラ数が多いのか?

lemonのleとdataのtaは日本人には同じ長さに感じるのに、なぜモーラ数が違うのか?

dataのtaは1つカウントしてるのに、0モーラって何だ?

一体モーラをどうやって数えているんだ?

と思うでしょうか?

 

これがモーラなんです。

英語ネイティブには、モーラ数という感覚はありません

ネイティブにはbeast, fail, lemonのleが同じ1単位、

lemonのmonと、dataのtaも同じ1単位、ということだけです。

モーラの数字は、あくまで音韻論者が便宜上作った数値です。

実態はありません。音韻論者の考え方によって数値は多少変わるでしょう。

なぜこういう数値になるのかは、また後日お話しします。

 

さらに言えば、1モーラ、2モーラと全て整数にするのは、

かなり大雑把です。

例えば英語の母音/iː/と/ɔɪ/はどちらも2モーラと扱われますが、

その振る舞いは違っていて、/ɔɪ/の方が明らかに”重い”のです。(詳細は別な機会に)

音節の振る舞い、重さの違いを説明するなら、

本当なら小数点を使うなど、もう少し細かくしないといけませんが、

どのように数値をふるかが、また研究者の想像力次第になってしまうわけです。

 

日本人が言うモーラの正体は「日本人が1単位と認識するもの」

つまり、「母語の音節」又は「中間言語の音節」です。

例えば英語のbestがbe-s-tと3単位に聞こえ、

sとtは「子音だけで発音する」と思っている人が多いでしょう。

「子音だけで発音する」=「音節主音の子音」ということです。

つまり日本人英語学習者の中間言語の音韻体系では、

be-s-tは3音節ということです。決して1音節3モーラではない!

これが本来の音節の考え方です。

実際には3音節のものを、1音節3モーラと解釈するから、

全ての分析が狂ってきてしまうのです。

さらにいえば、実際の英語音声学ではbestは2モーラです。

 

「一体何を言ってるんだ?」と思うかもしれませんが、

bestを1単位で発音できるようになると、全てがわかります。

是非その世界に皆さんも足を踏み入れて下さい。

 

●日本語の「音節」はピッチアクセントを説明するためのツールだが

日本語で、例えば「音声」という単語を、「お、ん、せ、い」で4モーラ、「おん、せい」で2音節、つまり2音節4モーラ語、というのが、現在主流の説です。

日本人研究者も、日本人以外の研究者も、9割くらいの音韻論者はこの説を推しているでしょう。

 

しかしそもそも、日本語での「音節」は、他の言語のように

母音体系がハッキリ1単位と認識できるものではなく、

むしろ母音話者があまり認識できないものです。

(この時点で、音節の定義がどう考えてもズレています。)

 

そして音節は、近年の音声学音韻論では、

日本語のピッチアクセントのパターンを説明するために、

使われるツールとなっています。

例、「ワシントン」が「低高高低低」ではなく「低高低低低」となる理由など。

 

そしてこれには、アクセント核(下がり目の1つ手前。「ワシントン」なら「シ」)が、

英語等の強勢(stress)と同等のもの、または類似したもの、

ということを前提とし、

「音節の核にしか、アクセント核≈強勢は置かれない」を前提にしています。

 

しかしもし、アクセント核と強勢が全くの別ものだったら、

この分析は根本から崩れることになってしまいます。

イルカが魚類ということを前提としてセオリーを作っていた場合、もしイルカが魚類ではなく哺乳類だったら、そのセオリーは根本から崩れてしまいます。

 

実際に、金田一春彦氏は60年以上も前の1965年に

アクセント核と強勢が全く別物だと訴えています。

海外の著名な研究者達も、Larry Hyman氏の2009年の論文や、

Bob Ladd氏の2018年の学会発表でも、

そのことを強く訴えています。

 

しかしそのことは、残念ながら日本の研究者達にあまり響いていないようです。

 

結局のところ、強勢(stress)をある程度のレベルで

発音でき、聞き取れ、感じることができるようにならなければ、

いくら教科書や論文を読んでも

強勢が何だかは、わからないので、話は平行線になってしまうでしょう。

 

英語の強勢は、例えば「CanadaのCaを高くすると」考えているうちは、

強勢を感じることはできません。

Caとnaとdaを同じ高さにしても強勢を感じられるようにならないといけません。

イルカが魚類に、コウモリが鳥類に見えてしまっているうちは、正しい分析はできないわけです。イルカを魚類、コウモリを鳥類として、どんどんセオリーを展開しまうことになります。このようなセオリーを誰が望むか?いや望まない。

 

強勢が発音できれば、英語をsyllable-timedで発音するのはもちろんのこと、

日本語をstress-timed rhythmで発音することもできます

全て通じる英語の37音表4巻で実際にデモンストレーションしてます。)

両者の違いを議論するのではなく、

強勢もアクセント核(声調の一部)をそれぞれ両方とも発音できるようにする。

これしかないでしょう。(両者は別物すぎて、比較することすらできません。)

 

私も含め、音韻論者は発音練習を怠ってはいけないのです。

 

幽霊が見える霊能力者と、幽霊が見えない人では、見えている世界が違うので、話は永遠に平行線でしょう。見えないものを想像だけを頼りに議論しても、限界があります。霊能力者と同じ土俵で議論をするには、霊感を鍛えてある程度幽霊が見えるようになるしかないでしょうし、見えれば世界がきっとガラリと変わると思います。発音も、発音できない/聞こえない音を、想像だけを頼りに議論するのは限界があるのです。

 

アクセント核と強勢が全くの別物という点に関しては、また今年中に論文を出す予定なので、是非そちらを読んでいただければ幸いです。

 

● 音節数≠聞こえ度の山の数

日本語の「さん」を1音節と扱うのは、音節数=聞こえ度の山の数、

という前提によるものなのですが、

金田一春彦 「日本語 新版 (上)」(1989, p.88)にはこのように書かれてます。

 

拍というものは、どこの言語でも、非常に明瞭な単位であって、その言語を話している人は、共通の拍意識をもっている。以前、言語学の世界で、英語などは拍の境界がはっきりしないというような説があったが、それは拍の区切りを表す標準は音の聞こえの弱まりだなどという妙なことを言い出した学者がいて、それにゆさぶられたためだった。一般の人の拍意識がいかに明瞭であるかについては、クレーシンハという学者が書いている。

 

現在の音声学では常識のように言われていることを、金田一春彦氏は「妙なこと」と書いているのは、注目に値するでしょう。

 

例えば前述の上海語のdan 带鱼は、母音が1つでnで聞こえが弱まるので、

聞こえ度説を取るなら1音節ということになってしまいます。

それとも上海語、広東語、閩南語など、音節主音の鼻音がある言語は、

全てモーラ言語ということになるのでしょうか?

 

実際には「その音節内で音節核が聞こえ度のピークになる」ということでしょう。

隣の音節の音よりも聞こえ度のピークが低かったところで、隣の事情は隣の事情です。

自分の音節内で完結するということでしょう。(詳細は別な機会に。)

参照)Mellesmoen (2021)のGood Enough Nucleus Hypothesisなど。

  

● 日本語の音節に関する3つの説

一応、拙著に載せた、3つの論を載せます。currently dominant analysisが、現在主流の説です。真ん中のtraditional analysisが、金田一春彦をはじめとする、本来言われていた説です。

日本語の単語「音声」、発音記号で/oNseR/ (N = ん、R = 伸ばす音)を例として、見てみましょう。

 

伝統的には、「おんせい」は、4拍、4音節ということです。

俳句で1つカウントするものが1音節、ということです。

これが、他言語の音節に相当するものだということです。

私は、この伝統的な分析を強く推します。これに戻すべきです。

 

理論をどうこう言うよりも、

lemonのleと、street, beast, pest, payなどを全部同じ1単位と感じられるかどうか?

そこにつきるでしょう。

 

●モーラ言語が日本語以外に無いのはどうなのか?

モーラ言語は日本語だけで、日本語以外の言語が全て音節言語というのは、

※韓国語釜山方言のように、1音節=歌で音符1つに当てはめられる単位に、

長母音単母音がある言語ではなく、1モーラが音符1つに当てはめられる言語。

通言語的な考えとして、どうなのか?

6000とも7000とも言われる言語の中で、日本語だけがモーラ言語ということは、

普通に考えたら有り得ません。

逆に「音節主音の子音がある言語」というのは、他の言語を見ても、

全く不自然なことではありません

ただ結局これもどんなに力説されても、コーダと音節主音の子音を発音仕分け、

感じることができない限りは、わからないのですよね。

是非、自分が発音できない、聞こえない音を、理論のみ想像するのではなく、

実際に、発音でき聞こえるようになって、該当する音を現実化することを考えてみて下さい。

  

●まとめ

・「音節」とは何か?「モーラ」とは何か?この超大前提をちゃんと見直すべきです。

 

・複数言語の音節をある程度のレベルで発音でき、聞き、感じられる人と、それができない人では、聞こえている世界が違うので、議論は永遠に平行線かもしれません。発音練習が必要です。

 

・音節で区切ることは、人間に本能的に備わっていることかもしれない。この根本を見誤ってしまっては、それ以降の全ての議論が間違ってしまいます。

 

・モーラは音韻論者が便宜上作ったもので、聞こえるものではありません。日本人に「モーラが聞こえる」と言うのなら、実際はモーラではなく、何か別なものを聞いていて、それをモーラだと勘違いしているはずです。

 

・日本語だけがモーラ言語で、それ以外の言語が全て音節言語などということは、考えられません。

 

是非もう一度、原点に帰ってみて下さい。

 

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